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感情の暴走の話ですが、これも始まりは実はかなり早くから始まっています。いきなり上機嫌から自我を忘れるほどの怒りにはならずに同じ時にまたは同じ時期にまたは同じ場所でと脳に怒りの積み木が重なるのです。この時にまた別の機嫌を良くする事があれば積み木はまた低い位置から始まるのです。
花粉症を例にしてみましょう。いきなり発症するのが通例でそれまで無症状で周りに花粉症の人がいて苦しんでいても自分がなるとは思わないし自分にどれだけの抗体が蓄積しているのかも分からないのです。よくコップの水に例えて徐々に溜まって来ていて溢れだす時に似ていると言います。
自覚症状が無いのは他にも身体の不協和が始まりだしているのに自覚症状が無く急に体に変調が出て来て病院に行ったらうつ病と診断されたとか、よくある話で蓄積するのです。
その蓄積は大きなものでは無く小さな事が少しづつ溜まって蓄積していくのです。蓄積なので発症までは病気とは言えず無病ですが未病と東洋医学では読んでいます。これに邪気も含まれ邪気は年齢と共に溜まり続けていくのです。
その蓄積には場所が感情に紐づけられているのなら、だいぶ溜まってきたからそろそろ脳の暴走が始まるとかだいぶうつうつとしたものが溜まって来ていると感情で判断できるかが出来ないのです。
脳には個々のニューロンの配列からか俗にいう頭のよい人と悪い人がいます。勉強は努力すれば成績は上がるのは事実でしょうが限界があります。仮に食事と睡眠時間以外をすべて学習時間にあてたとしても全員東大合格できるわけではありません。
勉強が出来ないから本人の努力不足だと過剰に負担をかけるのも良くないしその能力に応じた負担が本来望ましい育て方でしょう。
勉強ができるから性格が良いわけでもなく理性があるわけでもなく、そのまた別の話で社会的に地位のある人でも側近に恫喝したり奥さんにDVをしたり、簡単にキレてしまうのです。キレたあとには毎回反省し自己の行った暴言や他者への攻撃的な対応を悔いる事しきりでキレた事をよほどの変わった人以外は後になってもそれを肯定する人はいないでしょう。
己の暴発を反省するのですがなぜまた暴発してしまうのでしょうか?自制心が足りない抑えが効かない事はどんなに道徳の本を読み漁って修行をしても怒りの炎は消せません。平時にはその炎の存在自体が無いのですから。
通常意識では現れない感情が怒りによって獣のような心の変革が内面に起きるのですから不思議なものです。この時点で意識のコントロールが制御不能になり夫婦喧嘩などで大声やお皿が割れたり、社会では傷害、暴行事件や殺人事件までに進んでしまう事もあります。
精神論で精神をいくら鍛えても精神が脳の活動である事ですから脳には先に頭の良い悪い等の個別の例のごとく先天的な特性を超えるのが厳しいのです。
犯罪者を個別に打ち解けて話をすると、とても悪事をするとはその場ではとても思えない人達ばかりです。しかし再犯性はとても高く、それが社会が過去の犯罪者に温かい対応が不足しているからだとも言われますが、計画性犯罪は別において激情型犯罪は社会とは別な問題と思われます。
一見大人しい様に見える人が実は外に発言などの発信をしないだけでかなり短気でブツブツと暴言を言ったりしている人を知っています。こうなると誰でもこの激情は持っていて個人が認める認めないに関わらず神という第三者からみたら奥底に潜んでいるのがお見通しかもしれません。
研究者は脳の仕組みや行動学実験から脳を脳神経科学と呼ばれる分野から膨大なビックデータとそれを調べると脳に霊がいて精神活動をしている裏付けが無い事から脳は単に情報収集のネットワークの拠点であり刺激伝達の中枢でその刺激に対し神経ニューロン等の違いから同一刺激同一反応同一思考は生まれずに脳と精神は一体であり切り離しては存在できないとした考えがあります。
脳は肉体の一部パーツであり機械だとして機械が壊れれば精神は停止するもので人間の身体は霊長類という呼称もありますが哺乳類で神秘化を否定して死んだら腐る生物でしかないとした。「世間の人が死んだらおしまいその先なんかある筈ないでしょ」と発言する人にはそれを肯定する研究者の本もあります。
しかし幽霊なんかいるはずない、神はいないと否定する人にとっても神はいる常に見守っていてくださる。とした霊の否定と肯定の中間に【こころ】を場所として置いたのです。
心の場所は頭の中にあるのか心臓の拍動部にあるのか?よくイラストではハートマークをこころとして使いますが心の場所は確定したものではありません。神を天にいるとしていると思っている人がいれば宇宙のかなたにいると思っているひともいれば貴方の横に寄り添っていますと言う人もいます。
未知の世界と現実の世界の間に一つの精神世界が必要なのです。それがこころです。こころはその人の生き方の価値観に影響を受けます。与えるよりも影響を受ける方が多いでしょう。お金を中心に考えている生活の人と宗教的な行いを中心に考えている人では仮に同じ状況立場になってもまるっきり同じ行動をする事は無い事は推測できます。精神の優先順位が違うからです。
その人に心が無いわけではなく心が精神活動を支配できる範囲が狭いから悲しい行動をしてしまいます。東洋の道教思想でも徳が無い人に出会ったら哀れみなさいとあります。哀れな人でしかないのです。
まったくもって頼りない善悪の境界線ですが同義語で頼りないに心もとない、心許せないとあるのも分かる気がします。これば同じ出来事でもフレームがかかった脳でみるので「感じの良い人でしたよ、大人しくて優しい人で」と見える人もいれば生理的に嫌悪感を感じてたなら「何だか不気味な人でいた。何を考えているか分からない、えたいの知れない存在でした」と結果から持論を展開します。
ここで展開するのは、ほぼ大多数の善と犯罪を犯した少数の悪の存在です。犯罪者は千に一つ万に一つ億に一つの存在であって異質なものである。と言う前提に立っています。
オレオレ詐欺に引っかかる人間は馬鹿な人間だ私は絶対に引っかからないと多くの人は思っています。でも現実は息子を名乗る今では「古典的」な手法であっても子供を思う親心でまんまと詐欺に引っかかり多額の現金を振り込んでしまうのです。
思考に絶対はあり得ない事で常に同じ価値判断でしているつもりでも感情と言う曖昧なものによって下振れや下振れが起きコンピューターの様な判断があるわけではありません。コンピューターは将棋の対局ではコンピューターの圧勝で囲碁は難しさからしばらくはコンピューターが人間に勝つのは先と思われていたのが、この原稿の時にはいきなり3連勝の話題で囲碁にも人間はコンピューターにかなわない時が来ました。
ブレがある思考はしまいには立場を分からなくしてしまいます。受験勉強であと半年の辛さが耐えられなくなり希望の大学に行けなくなる。社会では楽に儲ける考え等も自分の徳を失うだけです。「あなたがむなしく生きた今日は昨日亡くなった人があれほど願った明日」という名言があります。
人は迷います。しかし健康をみても分かる様に毎日歩かなければならない。食事も好き勝手に偏食はできない。運動も必要と楽よりも苦を選んだ方が健康への選択肢です。善悪でいうなら正直になる基準があります。友人、知人、そして天に向かって嘘をつかない生き方が境界の曖昧な中での一つの方向性でしょう。
関西では新しい洋服を相手が着ていた場合「いい洋服じゃない、いくらしたんねん、どこでこうたの」が普通に行われてるそうです。着ている人の方から自分で同じ様に「これ○○屋でこうたんねん、○○したんねん」とかもあるそうです。
関東では相手方に失礼でも関西は普通であったり、それぞれ地域性があります。
そもそも善悪の評価があいまいな状態にあり、歴史でその当時は悪行とされた者が再評価されて偉人扱いされまたは英雄扱いされる場合があります。凶悪犯が逮捕されるとニュースで同級生の感想や近所の人の評判などのVTRがニュースと一緒に流される場合があります。
そこで気が付くのは昔のVTRは近所の人の話で「きちんと挨拶をして、そんな事する風に見えなかったけど」職場の上司や同僚の言葉で「欠勤や遅刻も無く、大人しい目立たない人間で普通に見えたけど」等と周りが変人と気が付かない意見が多かったのですが、最近のVTRの近所の人の意見はニュースの内容に沿った「暗くて不気味な様子でした」等とニュースに合わせたインタビューを拾っているようです。
腸は神経細胞数では脳に負けますが、その産出される伝達物質の量だけでいうなら相当量の為第二の脳どころか主にメンタル自立機能を働く神経系です。
内臓は独自に動き腸は蠕動運動を行い胃が働き消化されると十二指腸に送られ胆のうが収縮して胆汁が放出される一連の動作がすべて自立的に行われています。大腸は特にメンタルな臓器と呼ばれ神経量が多い臓器となっていて、それを裏付ける様にストレスが加わると蠕動運動に異常が起きて便秘になったり下痢になったりします。
一般に女性は便秘になり男性は下痢をする方が多い傾向にあります。ですが下痢と便秘は全くの正反対の物ではなく蠕動運動がストレスによって異常運動をしている状態なのです。便秘は蠕動運動が弱まり下痢は高まった状態になり過敏性大腸炎等に進行していきます。
胃もストレスに影響を与えるのはてきめんで漢方でも安中散などを処方したりします。肝臓もメンタルな影響を受け機能低下をして、心臓もとすべての臓器がメンタルな臓器なのです。
邪気ネガティブエネルギーはお腹に溜まります。胃がん、大腸がん、肺がん、と内臓のがんは一般的ですが、筋・骨格系のがんはまれです。これは内臓にエンテロピーが溜まる理由によります。上腕二頭筋のがん、大腿四頭筋のがん等あまり聞いた事がありませんよね?思い煩うエネルギーは内々に入って溜まりそして緊張を起こし硬結化して腫瘤を形成するのです。
これからも大腸がんは増え続けるでしょう。食生活の欧米化で脂質量の増加繊維の含む食品の摂取量の低下といわれていますがそれは要素でしかありません。細胞が正常でなくなりがん化するのには強いストレスが細胞に加わった時です。その強いストレスエネルギーは脂質の比率ではなく強いストレスエネルギーは精神的ストレスなのです。
ストレスは日常化しているとストレスをストレスと感じなくなりこの状態が平常時なのだと認識していくのです。しかし内臓は脳の一方的な解釈での状況解釈は受付てくれません。どんどんと邪気が溜まり続けて行くのです。
現代人は口臭が強い人が増えています。これは胃腸の悪い人が多いからだと思ったり。歯周病の人が多い為だと思われがちですが。悪臭は邪気の発する為だと言われ腹にたっぷりと邪気を溜め込んだ中年男性中年女性は口臭が強いです。老人は一般に口臭が義歯や口腔環境で強いと思われがちですが私が41年臨床経験で多くの人達と接してきて年をとっても爽やかな方は息も爽やかです。
処刑された犯罪者のは心が無かったのでしょうか?犯罪を押しとめる力として働く事ができなかったのは心が無かった又は心が貧しかったからからでは無いと考えて良いと思います。
心の抑止力は弱い物で微力です。宗教の教えでも「罪を犯した罪人は特別な存在では無い、誰でもその状況に立った時にその罪を犯す可能性はある」としています。
ある一人の男が居ましたその人は温厚な性格で誰からも好かれ家族を大切にして人柄の良い人として幸せな生活をしていました。その男に突如不幸が訪れ、工事現場で仕事をしている時に上から鋼鉄の建材が落ちてきて、下で作業していたその男は頭に鉄の棒が突き刺さり病院に搬送されました。
幸い一命を取り止め頭に刺さった鉄の棒を抜き社会復帰する事ができました。ところがその事故をきっかけとして男はまるで人が変わったかの様に人の嫌がる様な事をして婦女子に対して卑猥な言葉を口にするようになり嫌われるような事ばかりをして嫌われ者になったそうです。
海外の事例ですが、この男は心が壊れてしまったのではなく、単に脳が傷つき損傷をして別人になってしまったのです。ここまで特別な事例で無くても老人になってから抑制が効かなくなり怒りっぽくなり些細な事で激高し駅員を傘の先で突いて怪我を負わせ逮捕されたり、家庭内でも今まで温厚だったのが最近は怒りっぽくなり妻を怒鳴り感情的になるケース等があります。
これらは心が無くしたまたは減ったわけではなく脳が正常から異常まではいかないまでも判断能力に低下をする状況になったのです。その事が心は存在しないとの意見もあります。どんな教育や道徳教育を受けても人はキレて瞬間湯沸かし器のごとく感情に支配され理論的な構築や心理学的な自己の状況分析し第三者が見ている様な物の見方ができません。
芸能人の方が有名なお坊さんと一緒にゴルフを回った時にお坊さんがパットを外した際に口を鳴らし「くそう」といかにも俗世の人の形相をしていたのを話されていました。誰でも同じです、どんなに教義を学び修行をしても人は出家をしてもその瞬間には人である以上聖人ではいられないのです。
心はあります、しかし抑止力は微力である事を悟り、だからその心の抑止力を高める努力をしなければなりません。
脳がニューロンを介して体からの情報を集めてひとつの意識状態を形成している事から脳無くして精神は無い事になります。魂に精神に近い意識レベルの状態が存在すると仮定するなら。脳が無い状態で魂は存在して、交通事故や脳死の状態でも極端な場合頭部を切断した状態でも意識レベルを持っていると論ずるしかありません。
精神と魂とは幽体離脱や生まれ変わりを主張する一部の人を除き一般的には死と連動して同時に失います。その為魂と精神とはあたかも一体と思いがちになりますが分離独立した固有のものでしょう。
脳は意識精神活動の部分のコンピューターであって心の住む場所では無いのです。意識は複雑に脳が活動しているホログラム状態の事でそこに心があると唱える説もありますがそれでは心はアルコール薬物によって変わり脳の外科手術により変わり常時心が心理状態により変化をしている事になります。
しかし人々を見ていると本質があり固定化したものは変わらず、持って生まれた業であり絶対的なものです。
歴史の中で国家が宗教を利用してその統制により国家の体制を維持しようとした為に宗教の違いが国の文化風習や道徳感や物の善悪に対して大きく違います。もし善というのが明白なものであるなら違いは国や宗教の違いはなくても良いのですがまったく善悪が違うのです。
生まれた国は我々は選べませんので、ある国では躾であってもある国では幼児虐待の行為の場合があります。仮に性善説で善を人が行ったとしてもそれは生まれた国の文化風習宗派の教義にすっかりと洗脳されたもので善の行為をしています。そうなると性善説とはいったい何なのか?深く考えると新たな疑問が生まれるのです。
ニューロンとシナプスとアセチルコリンの一連の関係を心と思う人はいないと思います。そもそも認識に大きな違いがあり自己意識が存在するのでポジティブとネガティブの個々のボーダラインに大きな誤差が生まれてしまうのです。
であるならば異常とも思える犯罪者に対して精神鑑定を行い医師はその職務により様々な検知から診断を行いその結果医師が精神異常とは認められないと鑑定士検察側はそれを元に死刑を求刑し裁判の結果求刑通り審議の末死刑判決が確定し死刑執行が行われ、猟奇犯罪者の処刑となるのですが、この犯罪者は精神の問題は正常で心の問題なのでしょうか?
裁判官陪審員皆が正常者では無いと思っていて、ただ犯罪時に「心身喪失状態でなかった、正常判断が可能であった」との見解でしか過ぎません。
その考え方の物差しで考えるとほとんどが正常の状態で犯罪を行い、歪んだ価値観や性癖は異常としての減免の対象とは当たらずに処罰の対象とする司法の判断になります。しかし彼ら彼女らは明らかに病気なのです。正常な生き方考え方を生まれながらまたは生い立ち、または経歴か持つことが出来ないのです。
脳が肉体であるなら精神は心なのか?の問いにはそれぞれの専門的な知識を持った人は違った見解をもって統一見解とはならないのです。精神は脳の活動状況を示す。精神とはエネルギーである。精神とは魂の事である。精神とは意識の事である。精神とはパワーをだせる力を持っている。等々の精神が広義の概念である由縁です。
精神の概念が人が気づいたのは歴史家ブルーノ・スネル著『精神の発見』によると紀元前9世紀時代のギリシャ人は自分たちに思考や感情があると言う事すら気が付いていなかったそうで個人が決定権をもった自我の存在に気づかずに私は存在していなかったのです。すべては霊魂のが行い、あらかじめ決まっている事を実行している事で未来予測もまた先も決まっている事になります。
ですのでメソポタミアや古代ヘブライ文明は霊魂の力は絶大な力を持ちすべてを神託に仰いでいたのです。紀元前600年になって仏教文明の中にまた道教の中に意識という考え方がようやくできてきます。それからギリシャ哲学等精神の探求が続き人の心理とかについて発展していきます。
古代の人々の精神の研究はまだ医学的科学力が不足して推測や推理を多くしてもその研究である検証が科学的に証明できないのに弱点があり、コンピューターや化学機材なども有る筈も無く哲学的な考えにならざるを得ず正か誤かなど論じ逆もまた真なりと先天のものか後天のものか天賦のものかと複雑な迷宮に入るだけの世界になってしまうのです。
ここで明確にしたのがキリスト教でヨーロッパの発展大航海時代とともに全世界がキリスト教に影響を受けます。少なくとも当時の文明国はキリスト教を国教とした時代がありました。キリスト教では精神と魂は同一に近くは実態のない物で魂は肉体を離れて天国に行き不死になると決めてしまったのです。
教会の教えが世間に広まり価値観が浸透していきますが、ここでこの時代に生まれた哲学者達はまた教会の教えとは違った持論を展開して行く事になります。
心と精神と感情を同一視して一体としまっている傾向がみられます。昔から残虐な犯罪とても考えられない暴力や残酷な殺人が起きています。国内でも外国でも少年が残忍な手法を用いて命乞いをする者を殺人鬼となり殺すのです。
一般的な考えからはこれらの殺人鬼には心という物が無いのか?と思うでしょうが、それは心とは違う次元の世界のもので脳の支配領域のしでかした事なのです。
心ない犯罪とか心があたかも脳と同一の場所にある様な熟語や慣用語があるのも事実です。ブチ切れるとか脳が瞬間的に通常とは違った考えのモードに入りどのような事でも戦闘態勢から好戦的な状態になり攻撃的な精神状態ゆえに犯罪や殺人などを起こす事もあります。
その様な犯罪者には「けだもの」の様なという慣用句を使います。脳を心とからだに分類していますが脳も身体なのです。本質を考えると全てが肉体です。
それを心とからだに分ける分類がそもそも分け方が違っているので肉体を外科的な手術をして患部の治療をしたりしますが、脳もまた肉体なので脳出血した場合は脳を開頭して血液を出し鬱血した脳を回復させ止血をしてまた頭の骨を乗せてその上の皮の縫合をします。